■ 伏屋素狄(1747〜1811)
素狄は、江戸時代中頃の延亭4(1747)年に、河内国日置荘村(現堺市東区)の豪農・吉村正常の三男として生まれました。14歳の時、縁続きであった伏屋家の分家・伏屋重寓の養子となりました。伏屋家での通名は権右衛門、字は正宣、通称伏屋権之進、号を琴坂として称していました。
20歳の頃から、和泉国府中村の竹田蘭碗(尚水)に師事して漢方医学を学び、はじめは漢方医として堺で開業し、後に大坂に出て、阿波座(大阪市西区)、次いで堀江(大阪市西区)に移っています。蘭碗の娘・千世を妻としています。
50歳近くなって、杉田玄白の「解体新書」を読んで衝撃を受け、続いて宇田川玄随の「西洋内科撰要」、大槻玄沢の「蘭学楷梯」などを読むなかで、西洋医学と彼が学んできた漢方医学との違いに驚愕しました。漢方と蘭方のどちらが正しいのかを自分の目で確かめてみようと、大坂の町人文化人の代表格でもあった木村蒹葭堂の紹介を得て、大坂洋楽の開祖と称される橋本宗吉(雲斎)に入門し、大坂で最初の蘭学塾である絲漢堂塾で蘭方医学を学ぶことになりました。時に素狄は師の宗吉より16歳年上でした。
素狄は仲間たちと人体や動物を使っての実験的研究を積み重ね、実験生理学的方法を解剖と並行して行うことにより、漢方説とは異なる人体の構造や機能などを実証していきました。なかでも特筆されるのは、腎臓脈に墨汁を入れて腎臓を握り締めると、墨汁の墨が腎臓内に残り、腎盂からは澄んだ液が出て、輸尿管を通って膀胱に入ることを実験で確認し、腎臓の尿生成機能と経路について実証したことです。素狄の腎臓機能の濾過説は、諸外国に先駆けるものであり、現代でも高く評価されています。その他精汁が陰嚢で作られることの確認、小豆を使っての卵子が卵巣から子宮に至る受胎の仕組みの実証、帝王切開の紹介など多くの業績をあげています。
素狄が文化2(1805)年に刊行した「和蘭医話」は、自らの実験成果をもとに、西洋医学を問答体の逸話形式でやさしく書いたものですが、彼が漢方医から蘭学医に変わった事情等も記されています。
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