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和泉の国の名医


堺の名家竹田家の子孫は江戸時代になり堺から泉府中に移住し、歴代藩から殊遇を受けました。ことに18世紀の中頃竹田円俊に愛されて、特に竹田姓を許された珂亭(もと鈴木氏)は子の蘭碗とともに「泉(和泉)に竹田父子あり」とその盛名をうたわれたことが、医界風土記(酒井シヅ監修、日本医師会編集)に「堺と名医群像」に記されています。

■ 堺と名医群像

16世妃の中頃には、堺はほとんど独立国に近い様相を示していた。
当時来朝したキリシタン宣教師の通信によると、「堺の町は甚だ広大で、大きな商家が建ちならび、あたかもイタリアのベニスのような自由都市で共和国の観を呈している」とある。
ことに10年以上にもわたった応仁・文明(1467-77)の大乱後、京都全市が荒廃したので、文化や芸能の中心は一時的ながら堺に移った。しぜん堺に名医があつまり、最新の明の医学も堺を介して日本に輸入された。

名医の第1は半井家である。
明親という人が15世紀末に明に留学し、5年間熊宗立に医学を学んで帰った。数年して武宗皇帝が難病を病むときき、勅命により明に往診治療した。明親は武宗から賞賜された銅硯と驢馬とをもって帰朝した。 その後は半井驢庵と号した。この驢庵の娘婿宗沫というのが堺の半井氏の第一世で、牧羊軒と号して名 医の名が高かった。

名家の第二は竹田家である。
昌慶は正平24年(1369)明に渡り、名医金翁道 士につき勉励すること10年、銅人形や「医方集成」その他の医書をみやげに帰朝した。昌慶は後円融帝や足利義満の、また孫の昭慶は足利義政の難病を治して効あり、ともに法印に叙せられた。昭慶の子秀慶は「月海録」の著者で、その中に永正9年(1512)畿内に梅毒が流行した記事があり、この資 料を発掘した富士川游博士によってわが国における梅毒発生についての最初の文献として高く評価され た。この秀慶の兄の円俊高定が後柏原帝から薬師院の称号を賜り、堺に定住することになった。江戸時代になりその子孫は堺から泉府中に移住したが、歴代岸和田藩や伯太藩から殊遇をうけた。
ことに寛延宝暦の頃(18世紀の中頃)竹田円俊に愛されて特に竹田姓を許された珂亭(もと鈴木氏)のごとくは、 子の蘭碗とともに「大阪以南、河(河内)に北山元章あり、泉(和泉)に竹田父子あり」(篠崎応道) とその盛名をうたわれた。この蘭碗の娘の千世が、前述したわが国実験生理学の祖・伏屋素秋の妻となったのだから縁は異なものである。堺ではまた日本ではじめて医書翻刻刊行が行われた。

すなわち大永8年(1528)阿佐井野宗瑞が明の熊宗立の「新編名方類書大全」24巻10冊を翻刻したのである。 もっとも4、50年以前(文明年間)に熊宗立の成化版何部かが堺を経て輸入され、新しい明医学第−の書として重んぜられていたのであるから、宗瑞の翻刻は当時の医界の要望にこたえたものとして一意義が深い。



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